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奥三河の賦 春から初夏へ
Wed.01.05.2013 Posted in 風土
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  今年の桜前線は、三月末から四月にかけて、全国を素早く北上した。一方で、寒い日が続き、農作業にも影響が見られている。

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DSC_okumikawaharusyoka0053 posted by (C)dankichi0423
(月 満開の八重桜)

  そんな中、春を探しに、愛知県北設楽郡東栄町を訪ねた。
  東栄町は、奥三河と呼ばれる地域で山々が幾重にも重なり、振草は山間の谷間に位置する。谷間に位置する当地では、山の斜面を背にして前に石垣が積まれるか、裏の斜面を掘り下げて平地を作り屋敷地とする例が多い。家々では、山間の谷間に少ない土地を切り開き、耕地では、米、麦など、また茶、楮などの作物を生産してきたのである。

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DSC_okumikawaharusyoka0012 posted by (C)dankichi0423
(中設楽 蓮華草)

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DSC_okumikawaharusyoka0014 posted by (C)dankichi0423
(中設楽 白藤)

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(中設楽 八重桜)

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DSC_okumikawaharusyoka0029 posted by (C)dankichi0423
(中設楽 鯉幟)

  まず中設楽(なかしたら)という集落を訪ねた。中設楽は山間部の中の盆地になっており、そこに家々が字ごとに立ち並び、耕作が行われている。田圃には水が張られ、代掻きが行われていた。もう田植えの日が近いのだろう。また、端午の節句が近いこともあり、鯉幟が立てられていた。奥三河では、家紋と武者絵を染めぬいた幟旗を一本と、鯉幟を一本ないしは二本立てている所が多い。花々を見ると、染井吉野はもう散り、黄緑色の若葉が美しかった。しかし、八重桜が満開で、桃色の美しく嫋やかな花々が咲き誇っていた。また、藤、白藤が満開で、香しい香りをたたえていた。田圃の畔には、蒲公英、蓮華草・・・の野草が美しく鮮やかに彩っていた。

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DSC_okumikawaharusyoka0032 posted by (C)dankichi0423
(月 御殿川 藤の群生)

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(月 田植え)

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DSC_okumikawaharusyoka0035 posted by (C)dankichi0423
(月 田植え)

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DSC_okumikawaharusyoka0040 posted by (C)dankichi0423
(月 田植え)

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(旧月小学校 校舎の破風 月で兎が餅を搗く)

  次に月という集落を訪ねた。途中御殿川(ごてんがわ)には美しい藤の群落があった。そして集落にたどり着くと、あちこちの田圃で田植えが行われていた。田植は一人が大小機械で植えていたが、もう一人、すきで田をならしていた。田植えの終った田圃は、澄んだ水の中で凛と伸びていた。更に集落を歩くと、馬頭観音や石仏が祀られていた。奥三河では、こうした石塔石仏があちこちで祀られている。花は、八重桜が方々で満開であった。途中、廃校となった月小学校を訪ねた。こうして昔の学校が残っている所は少ない。地域で守られているのか、美しく守られていた。破風をみると、月の中で兎が餅をついていた。なんとも粋な意匠であった。

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DSC_okumikawaharusyoka0067 posted by (C)dankichi0423
(下粟代 集落を望む)

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DSC_okumikawaharusyoka0072 posted by (C)dankichi0423
(下粟代 褌姿の案山子が畑を見守る)

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DSC_okumikawaharusyoka0064 posted by (C)dankichi0423
(下粟代 山吹の群生)

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DSC_okumikawaharusyoka0080 posted by (C)dankichi0423
(下粟代 芝桜 紋白蝶)

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DSC_okumikawaharusyoka0097 posted by (C)dankichi0423
(下粟代 明くる月と八重桜)

  続いて、下粟代の集落を訪ねた。ふと橋を渡って左手を見ると、畑には右手に包丁を持ったふんどし姿の男性の案山子が立っていた。作者もモデルも良く知る人である。笑いがこみあげてくる。雀共もきりきり舞いに逃げ出すだろう。振り返ると、自宅に黒い物体が干してあった。蜂の巣である。蜂の子にして食した跡である。川を再び渡ると、黄色い花々が新緑の木立の中に咲いていた。山吹である。山吹の花は、花弁が五つ、いくつもの花がひと塊となって、咲いていて大変美しかった。その他集落では白藤、八重桜、芝桜が満開であった。

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DSC_okumikawaharusyoka0092 posted by (C)dankichi0423
(桑原 桃源郷)

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DSC_okumikawaharusyoka0094 posted by (C)dankichi0423
(桑原 風にたなびく鯉幟)

  さらに上に上がると、桑原の集落がある。そこでは、八重桜、芝桜、チューリップが満開で「桃源郷」のようであった。


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DSC_okumikawaharusyoka0095 posted by (C)dankichi0423
(下粟代 田植え)

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DSC_okumikawaharusyoka0096 posted by (C)dankichi0423
(下粟代 田植え)

  桑原と下粟代の境にある田圃でも田植えが行われていた。
  奥三河では、春から初夏へと向かうその時を見た。


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奥三河の賦 松迎から門はやし ー正月祭り―
Fri.08.03.2013 Posted in 風土
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  師走も押し迫った、平成24年12月30日(日)、31日(月)愛知県北設楽郡東栄町振草に赴いて、「松迎え」、「門はやし」と呼ばれる、正月飾りである門松を立てるまでの様子を取材させて頂いた。
  東栄町は、奥三河と呼ばれる地域で山々が幾重にも重なり、振草は山間の谷間に位置する。谷間に位置する当地では、山の斜面を背にして前に石垣が積まれるか、裏の斜面を掘り下げて平地を作り屋敷地とする例が多い。日当たりがよく、水都合が便利で、家の周囲に耕地が得られることを条件に、多くが東向きから南向きに位置取りされている。
  一般の農家は母屋(居住部)と釜屋(勝手等)が一体になっており、屋根は切妻の瓦屋根(かつては木の皮葺屋根が主流だった。)、間取りは母屋にでい、茶の間、へや、だいどこ、土間が田の字型に配置されている。東栄町など含めて花が行われる当地では、かつて、母屋の土間に竈をしつらえて、一昼夜にわたって、花が行われたのである。
  新正月、東栄町では、屋敷に門松を立てる。門松は神の依代で、屋敷入口の前の庭に二本ないしは三本立てる。地面に端杭と呼ぶ常緑樹の幹を立て、そこに仏式であれば、シキミ、マツ、タケを、神式であれば、サカキ、マツを添え、注連を張って紙垂を付ける。それぞれの両端にはヤスと呼ばれる円錐形の藁製のつとを付けるのが一般的である。

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DSC_kado0061 posted by (C)dankichi0423
(東栄町振草某集落Oさん家の門松 神式である)

  私が訪ねた振草の某集落では、集落のほとんどが神式であり、二本の端杭にサカキ、マツを添え、注連を張って、紙垂を付け、ヤスを両端に付ける。ヤスには、元旦に雑煮と餅をいれるのだそうだ。

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DSC_kado0003 posted by (C)dankichi0423
(注連縄をない、「門はやし」の準備をすすめる)

  年末近くなると、合間を見て、注連縄をなったりヤスを作り、紙垂を切る。門松だけではなく家中の祭り物を新しくするため、手間と時間が大変かかる。

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DSC_kado0001 posted by (C)dankichi0423
(「松迎え」屋敷林で、枝ぶりの良いサカキを切る)

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DSC_kado0002 posted by (C)dankichi0423
(「松迎え」屋敷にサカキを下ろす)

  年末30日、雨の中であったが、屋敷裏の屋敷林に赴いて、サカキを求めに行った。マツは既に、当家のお爺様が、良いものを取ってこられていた。山を登って登って、ようやく枝ぶりのよいサカキを見つけ、切り倒した。4本ほど切り倒し、山から降ろす。これを「松迎え」という。

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DSC_kado0008 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」庭にサカキとマツを立てる)

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(「門はやし」注連縄を張る)

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(「門はやし」紙垂を付ける)

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DSC_kado0059 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」ヤスを付ける)

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DSC_kado0062 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」門松の完成)

  明けて大晦日の31日、曇り空の雪まじりの中、「ようし、じゃあ門はやしまくるぞん。」とOさんの号令の中、「門はやし」を始めた。「門はやし」とは、門松を立てることである。切り倒したサカキとマツを水場から持ってきて、まず玄関の前の庭に端杭を二本立て、そこにサカキとマツを立てる。そして、注連縄を張り、紙垂を付けて、ヤスを両端に付けて、門松は完成である。

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DSC_kado0025 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」先祖墓をまつる)

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DSC_kado0028 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」水口をまつる)

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DSC_kado0032 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」屋敷神をまつる)

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DSC_kado0044 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」蔵をまつる)

  次に屋敷墓や古墓にも両端にサカキとマツを立て、注連縄を張り、紙垂を付けた。そしてサカキとマツを持って山へ向かい、まず水口にサカキとマツを立て、「輪ジメ」という輪の注連縄に紙垂を付けたものを付ける。また山墓にもサカキとマツを立てて「輪ジメ」を付けた。そしてさらに山を登り、屋敷神には、両端にサカキとマツを立て、注連を張って紙垂を付けた。山を下りて、倉と井戸には、サカキとマツを立て、「輪ジメ」とヤスを付ける。隠居所、炭焼小屋、作業所、ビニールハウス、便所、車庫にはサカキとマツを立て、「輪ジメ」を付ける。

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DSC_kado0037 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」おくでい、先祖や諸神を祭る)

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DSC_kado0041 posted by (C)dankichi0423
(「門はやし」大黒柱にも門松を立てる)

  その次に家に入り、先祖様を祀る「おくでい」の注連縄を張り替え、紙垂を付け替えた。また恵比寿様も同じく取り替えた。そして、これはこの地域独特の風習だが、大黒柱にサカキを立てて、そこに「輪ジメ」とヤスを付けた。
  「門はやし」とは、屋敷内外のあらゆる神々をはやして、明くる年を迎える正月行事である。これほどまでに、神々や祖霊を大切にする風習は、大変ながら、本当に素晴らしい。正月明け、花の帰りに、町内のあちこちで「門はやし」た門松を見て、諸神、祖霊と身近に生活する人々の営みに、心動かされた。



※参考文献:「東栄町誌―自然・民俗・通史編」
※この度の取材・写真掲載に際して、愛知県北設楽郡東栄町振草のOさんのご協力、ご了解を頂きました。年末のお忙しい中、ご協力、本当にありがとうございました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。
石鳩岡の賦 夏越の大祓
Sat.21.07.2012 Posted in 風土
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ishihatookanagoshi0007 posted by (C)dankichi0423
(小山田八幡神社 夏越の大祓 茅の輪)

 平成24年6月30日(土)、岩手県花巻市東和町小山田の小山田八幡神社にて、夏越の大祓(なごしのおおはらえ)が執り行われた。
 大祓は、6月と12月の晦日(新暦の6月30日、12月30日)に行われる除災行事で、6月30日に行われるのが夏越の大祓である。
 「備後国風土記」の「蘇民将来神話」では、「武塔神(素戔嗚尊)が、旅の途中で宿を乞うた時、裕福な巨旦将来は断り、貧しい蘇民将来は粗末ながらももてなした。後に武塔神は帰途、蘇民将来の家に立ち寄り、「かつての報いをしよう。お前の子孫がその家にいるか。」と問うと、「妻と娘がいる。」と答えた。すると茅の輪を腰につけることを命じた。その夜、神は茅の輪をつけた蘇民の妻と娘を除いて、全てを滅ぼされた。そして「私は素戔嗚尊なり。後の世に、蘇民将来の子孫といい腰に茅の輪をつける者はその疫をまぬがれるであろう。」と申された・・・」と、夏越の大祓の由来が記されている。

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ishihatookanagoshi0012 posted by (C)dankichi0423

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ishihatookanagoshi0013 posted by (C)dankichi0423

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ishihatookanagoshi0016 posted by (C)dankichi0423
(小山田八幡神社 夏越の大祓 茅の輪くぐり)

 拝殿脇に、茅の輪が設けられ、まず宮司が祝詞をとなえ、三拝する。そして氏子、神楽衆を祓い清め、予め氏子が息を吹きかけた人形の形代を宮司が持ち、宮司を先頭に氏子、神楽衆が切紙を撒きながら「思ふ事皆つきねとて麻の葉を きりにきりても祓いつる哉」「水無月の名越の祓する人は 千年の命のぶと云うなり」「宮川の清き流れに禊せば 祈れる事の叶わぬはなし」と歌を詠いながら左回り、右回り、左回りと八の字に三回茅の輪をくぐり、半年の穢れを祓うのである。

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ishihatookanagoshi0018 posted by (C)dankichi0423
(小山田八幡神社 夏越の大祓 拝殿の神おろし)

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ishihatookanagoshi0019 posted by (C)dankichi0423
(小山田八幡神社 夏越の大祓 拝殿の神事)

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ishihatookanagoshi0030 posted by (C)dankichi0423

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ishihatookanagoshi0031 posted by (C)dankichi0423
(小山田八幡神社 夏越の大祓 祈祷権現舞)

 その後、拝殿にて神楽衆による神おろしに続き、神事が執り行われ、祈祷権現舞が舞われた。権現舞では、参列していた私達夫婦がみどりごとなり、胎内くぐりと歯固めをさせていただき、無病息災所願成就を祈った。

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ishihatookanagoshi0037 posted by (C)dankichi0423
(小山田八幡神社 夏越の大祓 宮司が 人形の形代を川へ流す)

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ishihatookanagoshi0038 posted by (C)dankichi0423
(小山田八幡神社 夏越の大祓 宮司が 人形の形代を川へ流す)

 全ての神事が終わった後、宮司は、はずれにある川へ向かい、人形の形代を川へ流され、夏越の大祓は滞りなく終わった。

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ishihatookanagoshi0006 posted by (C)dankichi0423
(石鳩岡集落 田圃は青々とし 草取りが行われる)

 ある人が云うに、農家にとって夏越の大祓の頃は、忙しかった農作業が一段落する時であるという事である。確かに集落を見ると、田圃の稲は伸び、大豆など畑の作物も大きく成長していた。



※この度の写真掲載に当たり、小山田八幡神社宮司、小山田八幡神社氏子の方々、早池峰嶽流石鳩岡神楽菊池憲文会長はじめ神楽衆のご協力及び承諾を得て掲載いたしました。この場を借りて、あつく御礼申し上げます。
石鳩岡の賦 春から初夏への移ろい
Wed.11.07.2012 Posted in 風土
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ishihatookasyoka0032 posted by (C)dankichi0423
(田植えの終ったばかりの石鳩岡集落)

 平成24年6月上旬、岩手県花巻市東和町石鳩岡を訪ねた。石鳩岡は、拙ブログで何度か取り上げている早池峰嶽流石鳩岡神楽が依拠する集落である。今回は、田植えが終わったばかりの石鳩岡を訪ねてみた。
 今年は、寒さが長く続き、石鳩岡では苗作りが5月初旬、そして田植えは、5月末までかかってしまった。例年より2、3週間遅れたとのことである。

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ishihatookasyoka0002 posted by (C)dankichi0423
(山菜(フキ)を買う商売人のトラック。荷台一杯にフキが積み込まれている)

 早朝、土沢より石鳩岡向けて歩き始めた。その途中南川目という集落で、一台のトラックが目に留まった。よく見ると、束になったフキが、荷台一杯に積み込まれている。そして、脇では農家の方がフキを渡し、一方の方がお金と交換していた。お話を伺うと、奥州市江刺から来た山菜を買う商売人で、現在は花巻、遠野に、フキを買って回っているという事である。後で石鳩岡神楽神楽衆にに伺ったところ、農家の方はだいたい十数束売り、お小遣い程度になるそうである。農家にとっては、貴重な収入源であるという事で、大変面白い発見をした。

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ishihatookasyoka0020 posted by (C)dankichi0423
(石鳩岡集落の田圃 山や木々がシンメトリックに映り、美しい)

 石鳩岡に到着すると、田圃には水が多く湛えられ、青く若い稲の苗が規則正しく植えられている。天気が良かったため、水面には、森や山が、シンメトリックに写って美しかった。

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ishihatookasyoka0011 posted by (C)dankichi0423
(石鳩岡集落 畝の草刈り)

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ishihatookasyoka0016 posted by (C)dankichi0423
(石鳩岡集落 大豆の種蒔き)

 田植えが終わると、農家の方々によって、畔や水路の草刈り、また畑では枝豆、大豆、鳩麦、玉蜀黍等の作付が行われていた。

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ishihatookasyoka0025 posted by (C)dankichi0423
(石鳩岡集落 組合によるトマト栽培 トマトの苗に施肥している)

 と、そこに神楽衆の康一さんが通りかかり、「向こうでトマトの施肥をやってるよ」と声をかけて下さった。伺うと、数十畝にトマトの苗が植えられており、二人一組で施肥をおこなっていた。露地栽培で、加工用(ジュースやケチャップ)として出荷するという事である。石鳩岡の組合では、田圃の他、休耕地で、トマトの他、大豆等栽培して、出荷しているという。耕地を荒らさない、人々の強い思いを感じた。
 集落では、桐の花、蓮の花、カキツバタなどが見ごろを迎えていた。春から、初夏への移ろいを感じた。



※この度の撮影、掲載に当たり、早池峰嶽流石鳩岡神楽菊池康一さんのご協力、ご了解を頂いた。この場を借りて、あつく御礼申し上げます。
奥三河の賦 春 振草のお茶摘み
Wed.11.07.2012 Posted in 風土
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 平成24年5月19日(土) 愛知県北設楽郡東栄町振草に赴いて、お茶摘みの様子を見学、またお茶摘みのお手伝いをさせて頂いた。

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DSC_simoawasiroharu0016 posted by (C)dankichi0423

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DSC_simoawasiroharu0019 posted by (C)dankichi0423
(愛知県北設楽郡東栄町振草 山間の谷間に集落が形成されている)
 
 東栄町は、奥三河と呼ばれる地域で山々が幾重にも重なり、振草は山間の谷間に位置する。谷間に位置する当地では、山の斜面を背にして前に石垣が積まれるか、裏の斜面を掘り下げて平地を作り屋敷地とする例が多い。日当たりがよく、水都合が便利で、家の周囲に耕地が得られることを条件に、多くが東向きから南向きに位置取りされている。
 一般の農家は母屋(居住部)と釜屋(勝手等)が一体になっており、屋根は切妻の瓦屋根(かつては木の皮葺屋根が主流だった。)、間取りは母屋にでい、茶の間、へや、だいどこ、土間が田の字型に配置されている。東栄町など含めて花が行われる当地では、かつて、母屋の土間に竈をしつらえて、一昼夜にわたって、花が行われたのである。
 村々では、山間の谷間に少ない土地を切り開き、耕地では、米、麦など、また茶、楮などの作物を生産してきた。
 茶については、どこかに自生していた茶の木を急斜面の畑周りの畦畔、石垣に移植して株数を増やし、それらを「ぼた茶」と言われてきた。茶は、古文書などから、1600年代に生産を始めている。振草では、安政四年(1857)の文書に、延宝六年(1678)から年貢小物成として年貢上納されてきたとの記録が残る。
 その後、近代に入り換金作物として茶生産が主力となり、昭和40年代には基幹作物として、農協で緑茶加工施設が建設され、現在みられるような「園茶」の畑が見受けられるようになった。現在は、茶業を生業とする農家から、自家で賄う程度の生産を行う農家まで、様々である。

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DSC_simoawasiroharu0044 posted by (C)dankichi0423
(東栄町振草 Oさんの茶畑 斜面に広がる、この地域典型的な風景)
 
 さて、今回見学させていただいたOさんの家では、五畝(約500平方メートル)の茶畑を有する。畑では、若々しい茶の新芽がみずみずしく伸びていた。かつては結(ユイ)により、親戚、隣近所、の助力を得ていたが、現在は家族で行っている。結の頃は、そこが「井戸端会議」の場になり、話題に事欠かなかったようだ。

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DSC_simoawasiroharu0057 posted by (C)dankichi0423
(Oさんご一家総出でお茶摘みを行う)

 朝、日が高くなった頃、Oさんが機械摘みで大半を刈り始め、奥様、お祖父様、息子さんは手摘みでお茶摘みを始めた。私も見学方々、結(笑)でお茶摘みのお手伝いをさせて頂いた。

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DSC_simoawasiroharu0047 posted by (C)dankichi0423
(茶の新芽 みずみずしく伸びている)

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DSC_simoawasiroharu0048 posted by (C)dankichi0423
(茶の新芽を摘む)

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(摘んだ茶の新芽 私も頑張りました(笑))

 それにしても、新芽が多く伸びているものの、摘む作業は結構大変である。初めこそは、世間話をしながら、摘んでいたのだが、そのうちに、黙々とお茶摘みを行った。ばりばりと新芽を摘み、籠に入れていく。自分の周りにはお茶の爽やかな香りが漂い、癒された。

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DSC_simoawasiroharu0065 posted by (C)dankichi0423
(摘んだ茶を蒸れさせない様に広げている)

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DSC_simoawasiroharu0071 posted by (C)dankichi0423
(製茶組合加工場の風景 次々と運ばれる)

 休憩、昼食、休憩をはさんで、引き続きお茶摘みは続き、夕方には「もういいかん」と終わった。摘んだ茶を袋に入れて、振草の製茶組合加工場へ。丁度近隣が同時にお茶摘みを始めていたため、加工場は賑わっていた。花で笛役をしている方もいらして、ご挨拶したら、「来年はうちに来んかん?」と冗談を言って笑いあった。今年の成果は77.7キロ「ラッキーセブンだのん!いこりゃいいことがあるぞん!」役立たずとも私がお手伝いしたこともあってか、例年50キロ台から大幅な成果であった。
 Oさん宅に帰り、家族でお茶を飲み、一服した。疲れはあったが、爽やかなお茶の香り、味に心癒された。



※参考文献:「東栄町誌―自然・民俗・通史編」
※この度の取材・写真掲載に際して、愛知県北設楽郡東栄町振草のOさんのご協力、ご了解を頂きました。この場を借りて、厚く御礼申し上げます。

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